マートフォンの普及は我々の能力と生活を劇的に変えたと云っても過言ではないでしょう。搭載されている記憶媒体の容量は級数的に大きくなり、今まで撮影した全ての画像をポケットに入れて持ち歩く事が可能なりました。分からない事が有れば、簡単にネットを検索し、複数の解釈を瞬時に得る事が出来ます。我々は、図書館と辞書と百科事典とアルバムとを常に携帯し、それらをいつでも使える生活を手に入れたのであります。
私が学生の頃・・・たった35年前の事でありますが・・・スマートフォンはおろか携帯電話すら存在しておりませんでした。今のお若い方はお分かりにならないかも知れませんが、当時は、待ち合わせ一つ取っても今よりも遙かに厳密に慎重に取り扱われたものであります。「ごめ〜ん。ちょっと遅れるので、先に行ってて。そっちに着いたら、また電話する〜」などという甘い事は一切許されませんからね。何しろ待ち合わせ場所や時間を自己都合で変更しようにも、それを相手に連絡する方法が限られていたのですから。駅の伝言板には「○○君へ 2時間待ちましたが来ないので、今日は帰ります。△△子」などという記載がされていたものでありますよ。
同様に、喫茶店の使い方も、あの頃から大きく様変わりしました。今は純粋にコーヒーの味を楽しむか、PC作業などをこなすミニオフィスとして機能している喫茶店も、昔はもっと重要な目的の為に使われていたのです。待ち合わせ場所を喫茶店にしておけば、万が一遅れそうな場合も公衆電話からその喫茶店に電話して取り次いで貰う事が出来たのです。「お客様で○○様はいらっしゃいますでしょうか?△△様からお電話が入っております」などという呼び出しが、頻繁になされていたものでありますよ。
スマートフォンの現出により我々の生活は変わりましたが、私たちの知能自身が向上した訳ではありません。いやむしろ、ある文献によると、人間の世代交代が25年毎に行われると仮定して400世代程度では生物学的な進化はほとんど見られないのだそうで、だとするとラスコーの洞窟に動物の壁画を描いたクマニョン人の頃から都合一万年もの間、我々の生物学的な能力にはほとんど変化が見られなかった事になります。
スマートフォンとそれを支えるネットワークインフラの恩恵を享受して、我々は大きな進化を遂げたかのような錯覚に陥りがちでありますけれども、実際のところ我々一人一人の能力はほとんど変わらないばかりか、特定のカテゴリによっては退化しているものすら存在する事を理解しなければなりません。
漢字が書けなくなってきた。読めるが、書けない文字がどんどん増えてくる。
若松英輔著「言葉の羅針盤」(亜紀書房)からのお言葉です。我々が進化しているという幻想の存在が、我々の本来持つ稚拙さや、能力の低さに気付きにくくさせていると申せましょう。漢字が書けなくても、実はその能力低下を補完してくれるアイテム、すなわちPCやスマホを使う事で、結果として支障なく日常生活をこなせているだけなのです。
人類の叡智を結集しても、核ミサイル好きの北のお坊ちゃまの暴走を止めるだけの有効な手段を持たないとは。岡山理科大学の獣医学部新設について元愛媛県知事の国会答弁を一切伝えようとしないで偏向報道に終始するマスコミに、軽く扇動されてしまう人がかくも多いとは。スマホを所有する、すなわち図書館や百科事典を常時携帯する事と同義の状態にありながら、インスタ映えする写真をUPする事にしかその機能を用いない若者たちが増加の一途を辿っているとは。
思わず「文明とは何か」といった大きなテーマを考えてしまいそうになります。おっとその前に、漢字の練習をしなくっちゃな。
【つづく】
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