覧頂いているYasZoneもそうですけれど、ブログや個人ホームページというものは、多かれ少なかれ日記的な要素を含んでいるものであります。勿論、日記には、他人には云えない事を密かに綴る、という機能が存在しますので、他人にディスクローズしている以上厳密には日記でない事は承知しております。しかし、これらの文章には記載年月日が記されているのですから、その時点で何を考えていたのかとか、何が起こっていたのかとか、どこに出掛けたのか、という記憶を辿る役には十分に立つ筈で、やはり日記=日々の記録としての要素を持っている事に間違いないと申せましょう。
私自身、YasZoneの古い記事を読み返したりする事が結構あります。自分で書いた文章であるにも関わらず、面白く読めてしまいます。つまり、読んでみれば思い出すのですが、読み返す前はすっかり忘れてしまっているので、一々新鮮に楽しめるという訳。YasZoneに記事を掲載していなかったら、思い出さないだろうなという事柄もたくさん御座います。そして、それって割と普通の事だと思うのです。例えば、何の記録やメモも参照せずに、3年前の今日、自分が何をしていたかを明確に思い出せる人なんて、ほとんど存在しないでしょう。思い出せないという事は、覚えている必要が無かったという事でもあります。それが仮に云い過ぎだったとしても、覚えていなくても一向に困らないという事実には変わりありますまい。
世の中には覚えていなくちゃなんねえことは、そんなに多くはねえような気がするんよ。
葉室麟著「蜩ノ記」(祥伝社)からのお言葉です。インターネットの発達により、我々は自分の脳の延長ともなり得る広大な外部記憶装置を手に入れました。自分の知らない事もネットで検索を掛ければたちどころにその情報を手に入れる事が出来ます。もっともそれらの情報が全て正確なものである保証は無いのですが、そんな事を云い始めたらキリがありませんものね。ネットだけを悪者のように扱う方もいらっしゃいますけれども、他の媒体とて似たようなもの。朝日新聞の従軍慰安婦報道など、インターネット以外の媒体上の情報が完全な信用に値するものでは無い事は、ある意味明白な訳ですから、正確性や信憑性を気にし過ぎても仕方が無いというものです。
とにかく、スマートフォンがあればいつでもどこでも情報に当たれるというのは事実ですし、しかもコピー&ペースト機能を使って、あたかも自らが元々持っていた知識のフリをして他人に披露したりする事も簡単に出来る訳で、どこまでが自分の本当の知識範囲なのかは、曖昧になるばかりであります。ネットで引いた情報をその場限りの知識として蔑む向きも分からないでは無いですけれども、分からない単語を辞書で引いて、結果として自分の知識として吸収するという学習行為との差はほとんど存在しない事実についても、我々は承知しておくべきでありましょう。
スマートフォンの普及により、百科事典や辞書を常に携帯する状態を越えて、24時間営業の自分専用図書館(しかも検索エンジンという名の優秀な司書つき)を携帯する状態を享受出来るようになりました。この便利なツールを上手く活用出来るかどうかが、今後、大きな差になって行きそうであります。ただしこうした情報は、そのほとんどが本来覚えている必要など無かったモノ、あるいは覚えていなくても困らなかったモノである筈で、そういう意味では、我々が便利なツールを手に入れたのか、やっかいな手間を増やすだけのガラクタを得たに過ぎないのかは、ちょっと微妙なところなのかも知れません。
【つづく】
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