が学生の頃は、当然、携帯電話などという便利なモノはありませんでした。外で誰かと待ち合わせをする際は、今からは考えられないくらい緻密に、待ち合わせ場所と時刻を打ち合わせたものであります。電話は家にしか有りませんから、一旦家を出たら最後、本人に会うまでは連絡の取りようがなかったのです。
「待ちくたびれる」という言葉も最近では死語となりつつあるのかも知れません。昔はしょっちゅう使った表現なのですがね。「○○駅の北口改札前で7時ね」という約束に従って待ち合わせをして、相手が定刻に来れば問題ないのですが、出がけに用事が出来て家を出るのが遅くなったとか、電車が遅れたとか、7時ではなく8時の約束だと勘違いしていたとか、北口ではなく南口待ち合わせだと思っていたとか、理由は様々でしたけれども、30分でも1時間でも相手が現れるのをじっと待っていたものでありますよ。
最近のお若い方は、駅の伝言板って見た事ないのでしょうなあ。昔は改札の横に必ず連絡用の黒板が設置されていたものです。「○○君へ。1時間待ちましたが来ないので、今日は帰ります。△△より」なんて伝言を残す事で、何とか相手との連絡を取ろうとしたのであります。
同様に、今よりも昔の方が、もっと喫茶店を待ち合わせ場所として使ったように思います。予定通りに待ち合わせ場所に行けない場合、その喫茶店に電話して呼び出して貰うのです。「お客様で○○様はいらっしゃいますでしょうか?△△様よりお電話が入っております」なんて感じの呼び出しは、割と普通の風景でありましたよ。喫茶店側もこういう用途を意識してか、店名と電話番号の印刷されたマッチなどを配ったりしていましたなぁ。
このように、携帯の存在しなかった時代の方が、待ち合わせのアポイントメントは、より重い約束として扱われました。少なくとも今みたいに「すんませ〜ん、ちょっと遅れそうなんで先行ってて下さ〜い。現地に着いたら電話しま〜す」といった無責任な予定変更は、物理的にあり得ませんでしたからね。待ち合わせ場所に早めに着いて待っているのがエチケットという考え方は、少なくとも今よりも広く認識されていたと思います。もっとも当時も、遅刻の常習犯ってヤツは存在していましたがね。ただ、遅刻による迷惑の度合いは、今の比ではありませんでした。
携帯電話やスマートフォンの普及により、「待ち合わせ」の概念は一変した事は間違いないでしょう。あまりにも便利なこの道具、便利過ぎて依存症気味になってしまうのも仕方のない事なのかも知れません。電話だけでも便利なのに、メールやLINEやTwitterやFacebookの便利さは、画期的と呼んで差し支えありますまい。これほど便利な通信機能を、我々現代人全員がフル活用出来ているかと云えば、はなはだ疑問ですがね。「もう寝た?」「ううん、まだ起きてた」なんて阿呆なやりとりの為に、相当な量のパケットリソースが浪費されているのでしょう。まさにハイテクの無駄遣いであります。
これほど便利で、生活になくてはならない携帯電話。まさに文明の利器であります。しかし逆に、携帯を家に忘れたまま外出してしまった際の不便さや不安感と云ったら・・・。
人は携帯を発明することにより、携帯を持たない不安も同時に発明してしまった。
川村元気著「世界から猫が消えたなら」(マガジンハウス)からのお言葉です。文明とは本質的にそういうものなのでしょう。「携帯を持たない不安」を、「テレビを持たない不安」、「車を持たない不安」、「VISAカードを持たない不安」、「SNSのコメントを確認出来ない不安」などに置き換えても同じ事。文明が進むのに比例して不安は増えてしまう訳で、こうしてみますと、確かに物質的に高度化しているのは間違いないとしても、精神的な面に関しては、無用なストレスが発生しまくっているのも確実で、全体として我々人類は、進歩しているのか退化しているのか、ちょっと微妙と云わざるを得ないのでありました。
【つづく】
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