えば電車に乗っていて「あいてててて、腹痛ぇ」と独り言をつぶやく事など、まずありませんよね。多少どこかが痛かったとしても、それが救急車を必要とするような強烈なモノでない限り、黙って耐えるのが普通であります。ところがこうした独り言を頻繁に聞く事が出来る場所が存在するのです。そう、和田峠であります。
都道521号、通称陣馬街道の、東京都と神奈川県の境に位置する和田峠は、都下屈指の激坂として、多くのサイクリストにリスペクトされる、いわば坂馬鹿の聖地。私のようなヘニョピリンな者が登ろうとすれば、息も絶え絶え、自転車の自立慣性限界ギリギリのノロノロ走行する事になる、まさに激坂の王様的存在です。
その和田峠に自転車でお出掛けしますと、ここには三種類のサイクリストが居る事が分かります。第一群は本物のアスリート。強烈な坂をヒョイヒョイと軽く登る人達です。彼らは日常的に和田峠に通い、登坂タイムの向上を狙います。鬼の左ヘアピンで、わざわざ斜度のキツいイン側にコース取りをしてタイムを削ろうとする傾向があります。一旦登っておいてすぐに麓まで引き返し再アタックをするのも、彼らにとっては割と普通の事のようです。
第二群は、途中から完全に押し歩きモードになっちゃってる人達です。クロスバイク率が割と高く、ロードバイクに乗っていてもフラットペダルを装着している、いわば初心者の方が多く見受けられます。坂馬鹿の聖地を一度見てやろうという考えで来るには来たけれど、あまりの激坂ぶりに戦意を喪失している方がほとんど。中には悪いお仲間に騙されて、無理矢理連れて来られちゃった方もいらっしゃるようです。
第三群は、私を含むヘニョピリン軍団です。和田峠には何度も来た事があるけれど、その度に息も絶え絶え滝の汗。登坂タイムなんて元々眼中に無く、蛇行しながら何とか足を着かないで登るのが唯一の目標の人達。実は前述の「独り言を吐く」件は、私を含めたこの第三群の方々のお話なのでありました。
私の場合、和田峠において唯一自慢出来るのは、足を着かないで登れるという事これ一点のみ。平気で蛇行はするは、鬼の左ヘアピンでは比較的斜度の緩い大外のコース取りをするは、タイムを度外視した走り方をするのが特徴であります。しかも然りとて楽に登れた事など一度もなく、毎回常に足を着いちゃおうかどうしようか、悩みながらの登坂。故にと申しますか、途中で足を着いてしまう事や、もしくは足を着いているところを誰かに見られてしまう事を、異常なまでに恐れたりするのでありました。
「あいてててて、足攣った〜。」俺が軟弱な訳じゃない、やむを得ない状況故に足を着いたに過ぎないんだ、という事を周りに知らせしめ、サイクリストとしての尊厳を守ろうという涙ぐましい行為が、和田峠における、これ見よがしな独り言の正体なのでありました。
責任転嫁して、この苦境を乗り切る所存だ。
三浦しをん著「お友だちからお願いします」(大和書房)からのお言葉です。ま、私ほどの手練れともなりますと、足攣ったフリだけでなく、電話が掛かってきたフリとか、変速機の調子が悪いフリとか、様々なバリエーションを駆使したりするのですがね。フフフ。でも冷静に考えてみますと携帯は圏外だは、登り始めてすぐにインナー・ローに入れて一度も変速なんぞしていないは、どれも途中で足を着いちゃう理由としては、はなはだ弱いのでありました。あ〜あ、何ともヘニョピリンな話。
【つづく】
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