くらいのオサ〜ンになりますと、自分の意志だけで物事を決める場面は著しく減って参ります。それはそうでしょう。自分がこうしたいと思っても女房がそれに賛成してくれるとは限りませんしね。子供たちも既に高校生になり、それぞれにそれなりの自我を持っていますから、全ての事象において私の意志を押しつける事など出来よう筈がありません。例えば「今夜はうどんが食べたいな」と私が思っても、勝手にそれを押し通す事は出来ず、少なからず家族の同意が必要という訳であります。ま、当たり前か。
だからといって、全ての物事を家族全員の合議で決めようと考えている訳では決してありません。ある程度は合議的手法を取り入れるとして、最終的な結論は家長である私一人の責任において決めるようにしています。実はその際に最も重要視するファクタは、私の場合、私自身がパッションを感じられるかどうかであったり致します。
道に迷ったら情熱の傾く方向に進む。
安武信吾著「はなちゃんのみそ汁」(文藝春秋)の中のお言葉です。様々な決定には一見それらしい理由がつく事がほとんど。しかし、あえて乱暴に突き詰めれば、人は情熱を感じる事にしか傾倒出来ないのでありますよ。このような信念に基づき「俺がそう決めたからそうなのだ」という態度に出る事がたま〜にあります。少なからずリーダにはそういう側面が必要であるとも考えています。独裁的な要素が強過ぎるのはどうかと思いますが、独裁ゼロで牽引力を発揮する事は不可能だとも思うのです。勿論、これらはバランスの問題でもある訳ですが。
ま、こういう私を、家族は「偏屈親父」と呼ぶのですがね。ふふ。何とでも言いやがれ。
【つづく】
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