才と呼ばれる人への憧れが強く、少しでもその足跡から彼の精神を学びたいと云うモチベーション故、様々な方の著作に目を通すようにしています。そうしてみますと、もの凄い能力を有する人ほど謙虚である事が多く、専門分野での卓越した能力は当たり前として、他人とのコミュニケーション能力も高い事が、その著作から伺える方がほとんどである事に気付きます。
かつて、天才=マッドサイエンティストといったイメージが確かにありました。研究者は押し並べて変人であるというあのイメージです。彼らの時代は、単独での研究で成果が期待出来るという、いわば技術後進時代であった故に、専門分野にのみ精通してさえいれば結果を残す事が出来たのでありましょう。ところが現代ではエレメントとしての個々の基礎技術開発は既に出揃いつつあり、技術の具現化の為には、プロジェクト運営による計画的研究が必須となりつつあります。
例えば東京大学名誉教授の小柴昌俊先生がニュートリノの研究でノーベル物理学賞を受賞なさった際、岐阜県神岡鉱山の廃坑に作られたカミオカンデという壮大な素粒子検出設備がその研究には必須でありました。この施設は東京大学と文部省(現
文部科学省)の予算によって作られたものでありまして、小柴先生個人の資産では、到底建造し得るものではありませんでした。小柴先生は物理学者でありながら、優れたプレゼンテーション能力、ファシリテーション能力、ネゴシエーション能力を有していらっしゃった。だからこそ結果として、カミオカンデの建造を各方面に説得し、それがニュートリノの世界で初めての検出という偉業に繋がったのであります。
専門分野以外にも、高いコミュニケーション能力や調整力をお持ちの現代の天才の方々のお話は、だからこそ非常に面白く、我々の興味を引くものなのでありましょう。NHK
BS ハイビジョンを中心に、こうした我が国の現代の天才たちへのインタビューや談話や伝記が放送されており、それはそれは興味深いものなのであります。
天才の身でない我々は、情熱を持ち続けることしか、この世を渡っていく術がないのだ。
押井守著「凡人として生きるということ」(幻冬舎刊)の中のお言葉です。押井守氏は「ジャパンクオリティ」という造語まで作らせしめたアニメーション界の天才でありまして、うる星やつらシリーズ、攻殻機動隊シリーズ、機動警察パトレーバーシリーズの監督を務めるとともに、アニメ映画「イノセンス」(カンヌ国際映画祭出品作品)では日本SF大賞も受賞している、我が国を代表するクリエイターであります。
芸術家気取りの似非クリエーターにありがちな、傍若無人でチャイルディッシュな性癖は微塵も無く、決められた予算範囲内で、きちんと納期通りに、しかも万人の予想を遙かに凌駕するクオリティの作品を仕上げてくる当たり、現代の天才と呼ぶにふさわしい方でありましょう。芸術家的な要素だけでなく、スポンサーや制作会社からも全幅の信頼がおかれているからこそ、次々と質の高い依頼が舞い込むという好循環に繋がっているのです。
アニメーション黎明期に名を馳せた松本零士なんぞは、こういった大人の仕事とは縁遠い、子供のような振る舞いが目立ちます。黎明期だったから名を馳せられたのであって、もし彼の現出が30年遅れていたら、全く無名のまま終わったでありましょう。宇宙戦艦ヤマトでは、オフィスアカデミー(現
ウエストケープコーポレーション)に単なるキャラクタデザイナとして雇われていただけにも関わらず、原作者であり総監督であり、松本の雇い主でもあった西崎義展氏に対して、宇宙戦艦ヤマト著作権訴訟を起こし、当然の事ながら敗訴しています。自身の代表作品は既に30年前に出した銀河鉄道999やキャプテンハーロックしかなく、過去の栄光にすがる日々。クリエイターとしては力が無い事を自覚しているんでしょうが、それを公には認めたくないのでしょうなぁ。結局のところ宇宙開発事業団理事への立候補等の、売名行為に明け暮れる毎日なのであります。彼にはポリティカルな方法での地位の維持しか方法がないのでしょう。既に老獪と呼んで差し支えない程であります。ちょっとみっともねぇなぁ。仕事が出来ねぇのならば、潔く後進に譲って引退しろよな。
天才の身でない我々は、情熱を持ち続けることしか、この世を渡っていく術がないのだ。
押井守氏のような本当の天才ですら、情熱を持ち続けるしかない、とおっしゃっているのです。自転車にしろ仕事にしろ、少なくとも、大いなる情熱を持って事に当たっていこうと決意した、私なのでありました。
【つづく】
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