きな人と結ばれたい。これは誰しもに共通する願望の一つでありましょう。中には、遠くから見ているだけで十分だとか、君が幸せになるのなら僕は喜んで身を引くよ、なんて恋も有るのでしょうが、一般的には、好きな人と結ばれたいという気持ちは普遍のモノであります。
一番理想的なのは相思相愛という形。ところがこれが中々長続きしないんだなぁ。あ、言っときますけどね、本日の話題は非常に個々人の考えへの依存が高い問題ですので、あくまでも私の意見という事で理解して下さいね。決して他人様に考えを押し付けようって意図じゃ無いですからね。
最初のうちは相思相愛だった二人も、時間が経過するにつれて変化が生まれてきます。そうです人間の適応力の高さは我々の常識を越えていて、愛される事にすら慣れてくるのであります。愛の定義を明確にするのは難題ではありますが、自己犠牲を強いられたとしても相手に奉仕する事の方が喜びを感じられる状態でいる関係を「愛してる」と称して差し支えないでしょう。例えば、自分の欲しいモノを我慢しても相手にプレゼントをあげる事が、自分にとっての喜びである、というのがこれに当たります。
お互いがお互いの事を優先出来ているうちは良いのですが、何らかのきっかけでこの均衡が崩れると、一見主従関係の様な順列が出来てしまう事に繋がります。サービスを提供する側と享受する側の誕生です。不思議なものでこうした関係は、一旦出来上がってしまうと収束の方向に向かう確率はあまり高くなく、より昂進していく傾向が強いようです。
愛する人と結婚する方が幸せか、それとも自分を愛してくれる人と結婚する方が幸せかという命題は、昔から常に議論され続けてきました。こういう話題が挙がる事自体、関係が不均衡である事の一般性を物語っているような気がします。
その人のために犠牲になる人は、その人から捨てられる。
加藤諦三著「愛されなかった時どう生きるか」の中のお言葉です。ちょっとドキっとする言葉ではありませんか。相手に良かれと思っての行動や、無償の献身自体が自分の喜びのとなっている場合、それが犠牲と称されるレベルにまで達すると、結局は自分の相手への気持ちは伝わらなくなってしまうと云う事でありましょう。献身はある範囲内に留まっているからこそ、自分へのフィードバックを期待出来得るのであります。
相手が喜ぶ顔が見たい。我々は(少なくとも私は)そう思ってプレゼントを選ぶ訳ですが、本当はそうではなくて、きっと、"自分に向かって"喜んでくれている顔が見たいのでありましょう。人間は突き詰めれば皆エゴイストであり、最終的には自己愛に帰結するのではないかというのが私の意見です。勿論、程度の問題もありますし、そもそも全てそれだけで語れる程簡単ではない事は、分かった上で話しているんですが。
仕事を終えて家に帰ると当たり前のように食事が拵えてある。本来、感謝に値するような、とても有り難い事であります。ところがこうした献身にすら慣れてしまうのが、人間なのであります。サービスを提供する側と享受する側の誕生は、こうしたところをきっかけとして始まるのでありましょう。
いけないのは不均衡の昂進であって、献身そのものが悪い訳では決してありません。少しでも不均衡の昂進が起きないようにする事が、捨てたり捨てられたりする事の無い、良好な関係を存続させる為の重要な要素なのかも知れません。
出されたものを食べてるばかりではなく、たまには食事の後に、皿でも洗ってみようかなぁ。
【つづく】
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