近、ちょっと変な人が増えてきたと思っているのは私だけではありますまい。感情の起伏が、著しく乏しい人たち。いやもしかしたら、感情は持っていて、しかしそれを他人に伝える事が苦手なだけかも知れませんが、他人から見れば結局は同じ事。感情を喜怒哀楽の4つに分けるとすれば、他人に対して積極的に表すのは「怒」の感情のみ。彼らには特に「喜」の表情に欠け、嬉しい時に上手く喜ぶ事が出来ないという特徴が見られます。
我々は普段、多くの「目」を意識して生活しています。ここでいう「目」とは必ずしも卑屈な意味のものだけではなくて、コミュニケートする対象全般の事を指していると考えて下さい。我々はひとりぽっちで生きている訳ではないのです。
例えば電車を降りようとした際に、乗り込んでこようとした人と鉢合わせ状態になってしまった場面を想像してみて下さい。すっと横にずれて相手を先に通した際、その人がにこっと笑ってくれただけで、どれほど心が和むでしょうか。 特に知っている者同士でもないし、すれ違えばすぐに忘れてしまうであろう相手ではありますが、こうした相手の「目」も自然に意識しているからこそ、笑顔という形のコミュニケーションが取れるのだと思います。
電車の中で化粧をしている女性が増えました。これらの方々は「目」を意識せず、ひとりぽっちで生きているのでしょう。人前で化粧をするのは恥ずかしい事。しかし「目」を意識しない以上、誰も居ないのと同じです。彼女たちにとって電車の中は人前ではないのでしょう。
こうした傾向は、近年どんどん強くなっているように思います。コンビニに入ると「いらっしゃいませ。○○にようこそ」と店員に声を掛けられますが、多くの人はまるでその店員が存在していないかのように振る舞います。こういう場合、大げさなリアクションは無論不要としても、会釈くらいは返すべきでしょう。この会釈を返すという古くから我が国に存在した美徳は、急速に失われつつあります。
喜ぶ、というのも一つの習慣じゃないでしょうか。それに習熟することが必要な気がするのです。
これは五木寛之著「生きるヒント」の中の言葉です。喜びの表現はそれを誰かに伝えてこそ意味を持ちます。コンビニでの店員を無視する行為しかり、きちんとしたコミュニケートが習慣づいていないと、喜びを表現する事さえ出来ない人間が出来上がってしまうような気がします。
喜ぶという行為が習慣になっていない。だからどう喜んでいいか、どう喜びを伝えていいのか分からない人たち。悪気無くやっている行為とは云え、あまり気持ち良いものではありません。はっきり言ってみっともない。喜びを表現する事以外にも、きちんと挨拶する事や、人の目を見て話をする事とも全て共通していると思うのです。
こうした習慣は、本来子供の頃から形成されるべきモノで、故に大人になってから習熟するのは極めて難しいでしょう。自転車に乗れるようになる事と似ています。子供の頃であれば、習得するのは誰にでも出来ます。ですから一見、大人が乗れるようになるなんて、より簡単な筈のように思えます。ところが実際には、「転んで骨折でもしたら大変だ」とか「小刻みにハンドルを切る事で車体を安定させるべき」とか「ある程度スピードが乗らないとジャイロ効果が得られない」等の余分な知識が、素直で正常な習得を阻害してしまいます。全ての物事には学ぶべき最良の時期があると思うのです。この時期を逸する事で、習得の可能性は著しく低下してしまいます。
こういった、人間として知っておかねばならない事、出来て当然の事は、学習とは呼びません。しつけと言うのであります。漢字で書けば「躾」。身偏に美しいとは、上手い表現です。おっさん臭いと云われようが何しようが、最近、この躾がなってないヤツの事が許せないのでありました。
【つづく】
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