田尚樹。1956年生まれ。放送作家・小説家。かつて私は氏の文章力の高さや小説テーマの多様性に一目置いていました。「永遠の0」(太田出版)、「BOX!」(太田出版)、「海賊と呼ばれた男」(講談社)、「モンスター」(幻冬舎)、「風の中のマリア」(講談社)、「フォルトゥナの瞳」(新潮社)などは、小説作品として間違いなく傑作であると思います。
しかし近年、「殉愛」(幻冬舎)を巡る一連の係争や、安倍晋三首相のブレイン的立場での政治的発言など、明らかに小説家としての枠を逸脱していると感じましたし、メディア露出が過ぎるなぁとも思っておりました。自身の主義主張を明確にする事自体は必ずしも悪いとは申しません。でも小説家は小説で勝負して欲しいというのも、読者としての正直な意見であります。小説家がテレビに出て、特定の人を罵倒したり、批判に対する言い訳をしたり、自身の作品の執筆意図を解説したりする姿は、決して格好の良いものではありません。メディア露出し過ぎた事で、薄っぺらい人物であるというイメージが広まってしまいましたし、その事により、氏の作品に対しても薄っぺらいイメージを持たれてしまうのは、氏の小説のファンとして悲しく思うところであります。
先日、「カエルの楽園」(新潮社)を読みました。カエルの国のストーリーという寓話的体裁を取りつつ、憲法九条改正の必要性、集団的自衛権の行使容認の正当性、多くの日本人に対する平和ボケへの警鐘、在日米軍の重要性、韓国中国ロシア北朝鮮などの周辺国に対して毅然とした態度で臨むべきという主張、安倍晋三応援団的な立場として世論を誘導したい意図、などを強く感じました。主張の内容はともかく、「カエルの楽園」を小説作品として捉えるとすれば、違和感ばかりが鼻に衝きます。
もし安倍晋三応援団としての世論誘導が目的であるとするならば、そもそもこうした寓話的な小説という形式ではなく、実名を出しつつ証拠や論拠を明確にしながらの論説的主張を堂々と行なうべきでありましょう。本来なら、月刊文藝春秋あたりに投稿すべき内容の話な訳ですからね。
私は百田氏の主義主張自体を否定している訳ではありません。いやむしろ、私自身、多少右よりな考えを持っている事も事実なのです。そういう意味で私の個人的な考え方とこの小説が誘導しようとしている方向性は、共通点が多いとさえ云えるかも知れません。私は氏の主義主張の方向性を論じているのではないのです。小説家としてのモラルを疑わざるを得ない事が、氏の紡ぐ珠玉の小説のファンとしては悲しいのであります。
「カエルの楽園」は、はっきり云って小説としては陳腐極まりない。だってそうでしょう。安倍晋三応援団としての世論誘導の意図が明確過ぎて、物語の結末が簡単に推測出来てしまうのですから。氏の処女作である「永遠の0」(太田出版)は、ストーリーとしての意外性に満ちていました。百田尚樹という作家は優れたストリーテラーであり、それをビシっと表現出来る筆力を持っています。筆力に乏しいのであれば諦めもつきます。しかし筆力があるにも関わらずこうした薄っぺらい小説を出してくる行為は、将軍様万歳の彼の国にありがちな陳腐なプロパガンダを彷彿させるというものであります。
敢えてライトノベル的な簡単な表現を多用し、明らかに中高生をターゲットにしているのも気に入らない点の一つです。ここまで表現レベルを落とせば、おそらくは歴史認識や政治意識に乏しい若年層からの「一気に読み終えました」とか「すごく分かりやすいです」とか「日本はこのままじゃイケないという危機感を持ちました」等の好意的なレビューがたくさん付く事でしょう。次の選挙から選挙権が18歳に引き下げられる事を睨んでの行為ではないかと勘ぐりたくなるもの、仕方無いというものであります。
筆力のある小説家なのに、何故、彼は表に出ようとするのか。多くの力のある作家がそうであるように、メディアへの露出を控えた方が、小説自身を正しく評価して貰えるという事が分からないのでしょうか。彼の作品のファンとしては、残念としか云いようが無いのでありました。
【つづく】
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