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海軍零式艦上戦闘機五十二型 |
転車仲間のkincyanさんのブログに所沢航空記念公園の記事が載っておりました。現在、海軍零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦が展示されているそう。しかもこの機体、実働する世界で唯一のモノであると云うではありませんか。これは見に行くしか無いでしょう。そこで土曜日にかみさんと一緒に車で所沢まで出掛けてみる事に致しました。
ゼロ戦は日本が誇る戦闘機であり、いくつかのバージョンが存在する事が知られています。今回展示されているゼロ戦は今から11年以上前に、鹿児島の知覧特攻平和会館で見たゼロ戦と同型の五十二型。大東亜戦争開戦当時、真珠湾攻撃に投入された二十一型に比べると、馬力も旋回性能も、後継の五十二型の方が遙かに上だったとの話。胴体に爆弾を積んで片道の攻撃を敢行する特攻機は、比較的経験の浅い若い隊員が搭乗する事が多く、しかも米国艦艇に向けて突入自爆する事を目的としている訳で、故に性能の低い旧型の二十一型から優先的に投入されたと聞きます。逆にそれら特攻機の護衛を担う直掩機は経験のあるエキスパートが搭乗する事が普通で、スキルの高い搭乗員から順に高機能機に搭乗するのは、現代においても戦略的観点からは当然ですから、所沢に来ている機体は、こうした飛行経験が多い熟練搭乗員の乗っていた機なのかも知れません。
私は理系出身であり、飛行機などの高度な工業製品には大いに興味があります。そういう意味においても所沢の航空記念公園は非常に楽しめる施設です。ところがゼロ戦については特別な想いが先行してしまうのであります。勿論、ゼロ戦も工業製品なのですけれども、こう何と申しますか、メカに対する想いよりも、搭乗員の気持ちの方を考えてしまうのです。
第二次世界大戦下の日本はひどい狂信的国家で国民の多くが洗脳状態にあり故に自爆テロとも呼べる特攻作戦が敢行されたのだ、という意見を聞く事も少なくありません。自爆テロという表現からか、ニューヨーク世界貿易センタービルでおこった9.11テロと同列で語る人も居ます。しかし私はこうした考えに大きな違和感を覚えます。私は決して戦争肯定論者ではありません。しかしかつての特攻作戦と9.11テロを同じ軸で語る事だけは許せないのであります。
9.11は市民に対する無差別なテロ行為です。対して特攻は宣戦布告した相手の戦闘兵器である艦船に対する攻撃です。戦争の是非に関する論議は別の機会に譲るとして、戦時下における敵戦闘員に対するあらゆる攻撃は、反撃されるリスクを覚悟した上での行為であります。確かに自爆を前提とした特攻は常軌を逸した作戦でありましょう。しかし9.11のような無差別殺人犯とは明らかに異なります。そしてあえて誤解を恐れず云えば、非戦闘員である一般市民に対し無差別攻撃を行なったのは、日本ではなく、むしろ民主主義を振りかざしていた米国の側である事は歴史上の事実であります。
天皇陛下万歳とかお国の為に散るなどの遺書の中の表現をもって、彼らが洗脳されていた事を指摘する意見は、底の浅い考察に過ぎないと思います。もし仮に私が特攻隊員として出陣するとしたら、遺書にはきっと似たような表現を使うだろうと思うからです。これから死にゆく者が、残された女房子供親兄弟に対し、自分は本当は死にたくないのだ、怖くて怖くて堪らないのだと訴えて何になるというのでしょう。遺族に無用な心配や悔いを残すだけではありませんか。残される者を思いやろうとするが故に、何の迷いもなく覚悟を決めた振りをするのは、残される者に対する死にゆく者の一種の愛情表現であったと思うのです。
我々は女房子供を食わせる為に、強烈なストレスも甘んじて受ける覚悟で日々働いています。緊急度や意識レベルは異なるでしょう。しかし自己を犠牲にしてでも守るべき対象が存在するという点において、根の部分では同じような意識であるのかも知れぬとさえ思えるのです。
帰宅して、以前読了した百田尚樹著「永遠の0」を一気に再読してみました。やはり若い方には是非とも読んで貰いたい本であります。12月には映画化されるようで楽しみです。
今回の所沢のゼロ戦展示は航空博物館としての展示の色が強く、それはそれで展示としては満足出来たのですが、同時に鹿児島の知覧特攻平和会館にも是非とも再訪してみたいと感じたのでありました。
【つづく】
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