地球温暖化対策について考える(第6話:再生可能エネ推進とは別に考えよう篇)
球温暖化防止の為の活動を「エコ」と過剰に結びつけて考える論調は相変わらず根強く、テレビのコメンテータの中には、もはや思考停止と呼んでも差し支えないくらい、「エコ」な行動こそが温暖化を防止する唯一の方法であると信じている方が結構いらっしゃるように思います。
地球温暖化を止める為に、レジ袋を廃止しエコバックを使おうとか、食品ロスを減らす為にもっと考えて買い物をしようとか・・・。たとえ僅かでも二酸化炭素の排出量を減らそうという意気込みは買いましょう。ただしそれが自治体とか国とかマスコミとか、大きな組織の掲げる目標とか指針とかスローガンとかにされる事には、どうしても違和感を覚えてしまいます。個人々々の意気込みは大切ですけれども、解決の為の具体的なロードマップを示す事が、リーダの役割であるべきだと思うのです。レジ袋を廃止したからといって、それだけで温暖化が止まる訳ではありませんからね。
同様のロジックとして、地球温暖化防止と再生可能エネルギーへの移行を一体として考える風潮も気になります。二酸化炭素を吸収する仕組みも、EV(Electric
Vehicle:電気自動車)を動かすにも、莫大な電力が必要となるのは自明。それをまだまだ不安定な再生可能エネルギーで賄おうとするのは無理がありましょう。理想論を振り回していては、温暖化のシンギュラリティ(特異点:修復不能なくらい爆発的に温暖化が加速する分岐点)の方が先にやってきてしまいます。
まずはシンギュラリティを避ける事。その為にもっとも手っ取り早いのが原子力発電の利用ではないでしょうか。原発を「トイレのないマンション」に例える方もいらっしゃいます。確かに核廃棄物の処理方法は、未だ確立されておりません。それでも現時点で温暖化に対してすぐに手を打たなければならぬとしたら、安定したベースロード電源の確保の為に、原発以外の選択肢は無いと思うのです。
例えば車は間違いなく交通事故の元凶の一つです。だからといって我々は車の使用を禁止する事はありませんでした。起こった事故を検証し、その原因を探し、仕様や機能や材料や構造を修正する。こうして事故を起こす確率の低い車や安全性の高い交通環境が整備されてきたのです。我々が車を運用し続けたからこそ、車は進歩したのであります。危ないからとヒステリックに、ただ禁止すれば、技術的な進歩はそこで止まってしまいます。
単純に原発を推進しようと云っているのではないですし、勿論、東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故を忘れた訳ではありません。現行型の原発が一度暴走を始めれば、それを正常な状態に戻す事が如何に困難かを、我々はあの事故で思い知らされました。しかし、こうした事故から得た技術的な知見や、運用的な知見もたくさんあった筈です。もし今、原発を全て止めてしまったら、そして新規の原発の開発を放棄してしまったら、こうして得た貴重な知見は失われてしまいます。
人間の知恵をもっと信じようではありませんか。私が小学生だった頃、夏の暑い日に校庭で体育の授業をしていると、光化学スモッグで目が開けていられない程痛くなったものです。たった50年間でこうした排気ガスに起因するいわゆる公害は、著しく減少したではありませんか。ドロドロだった川も随分綺麗になりました。ライト兄弟がたった36m、12秒間の飛行に成功したのが1903年。それから僅か66年後の1969年には、アポロ11号が月面に到達しているのです。
我々が、未来を生きる人々から地球環境をちょっとだけ借りている存在だとすれば、温暖化を克服し、綺麗にして返すのが道義というもの。しかし、シンギュラリティを一旦迎えてしまえば、それは叶わなくなってしまいます。その為にも、人類の叡智を信じてみても良いと思うのです。このまま原発を運用し新規開発を進めれば、必ずや安全性の高いプラントや、環境に負荷を与えない核廃棄物の処理方法が確立されると、少なくとも私は信じています。
地球温暖化防止と、再生可能エネルギーへの移行を一体として考える事はやめようではありませんか。原発でも何でも、今、利用可能なものを駆使してシンギュラリティの回避を最優先に考える事が、今我々に残された唯一の道なのですから。
【つづく】
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