在お読み頂いている「遊びのアンテナ、のばしてるかい?」の第2話以降は最近の文章でありますけれども、「第1話:子供の頃の思い出篇」だけは、11年前の2003年に書かれたモノであります。今、読み返してみますと、文体も今のモノとは微妙に異なりますし、考え方もちょっと違っていて、一言で云うと、嗚呼若いなぁ、というのが正直な印象。さて、今日はこの懐かしの第1話の内容について、再考してみようと思います。
第1話では、人生の折り返し点を考察するに当たって、砂漠を旅する賢者の寓話を例に挙げておりました。以下にその話を引用してみましょう。
砂漠を旅していて水筒の中の残りを見たらちょうど半分でした。愚者は、「あぁ、もう残りが半分しかないや」と焦りました。焦りは喉の渇きを誘発します。喉が渇くと焦りは倍増します。級数的に膨れ上がった不安感の中で正常な判断力を失った愚者は、道を間違い砂漠で遭難死してしまいました。対して賢者は、「まだ半分も残ってるぞ」と認識しました。そして砂漠に足を踏み入れてから今までの道程を思い出してみました。それはそれは長い道程でした。賢者は「半分の水が残っているという事は、この水があれば、今までと同等の長い道程を踏破する事が可能という事だ」と考えました。焦りの心のない賢者は途中道を間違ったりする事なく、無事に砂漠を抜ける事に成功しました。
当時私は、「一般的に日本人の場合、『あぁ、もう残りが半分しかないや』と考えるタイプが多く、自分も又そうである」と書かせて頂きました。「一般的に日本人の場合・・・」という、かなり無理なまとめ方をしておりますけれども、この頃私は、外資系企業のIT部門に勤めるサラリーマンだった事もあり、身近に多くの外国人が働いていたものですから、さも自分が日本人を代表したような書き方になってしまったのだと思います。今思い起こしてみても、かつての職場は、常にピリピリしたストレスフルな場所でありました。ポジティブに考えるいわゆる楽天家は極々少数派で、自分を含めてほとんどの人間はネガティブに思考し、その割に出世欲や金銭欲にまみれていたように思います。私にしても、常に、焦り続けていたような印象が強く残っております。そんな事もあって、「あぁ、もう残りが半分しかないや」とのネガティブな考えに至ったのかも知れません。
私は既に49歳。日本人男性の平均寿命を76歳とすれば、人生の残りは35%!11年前の私なら、残りの短さを嘆き、慄き、焦ってしまったでありましょう。あの頃は、人生の質が均一であるという思い込みに完全に囚われておりました。それ故に、35%という残りの少なさに、絶対ビビっただろうと思うのです。
物理的な残り時間を考える事自体がナンセンスなのでしょう。時間にははっきりと濃淡があります。実は、生き方の質を向上させれば良いだけなのです。思い起こせば私が大学を出て就職したばかりの頃、精神的な余裕など全く無く、たまの休日すら焦りまくって、隠れて勉強しておりました。私はシステム開発系の仕事をしていて、最初に配属されたのは、IBMの大型汎用コンピュータを使う職場。OSはMVS/XA、I/OはISPF/PDF、開発言語はPL/Iという、今から考えればちょっと特殊な環境でした。まだリレーショナル・データベースは出たばかりで、IMS/DB/DCを使用していた時代のお話です。VSAM編成のファイルを直接読んだりしてね。RDBの理論は既に確立しておりましたが、処理速度の面で、まだ実用に耐え得るレベルには達しておりませんでした。
しかし時代は確実にWINDOWSやUNIXに向かっていました。データベースも近い将来オラクルが台頭してくるであろう事は、業界では常識と云われていたのです。オラクルDBを直接使うのではなく、ODBC(オープン・データベース・コネクティビティ)等の汎用ドライバを経由したり、OLE(オブジェクト・リンキング・アンド・エンベッティング)で接続したりともなれば、それらのやりとりの流儀を知らねば、時代に取り残されてしまいます。職場で要求されるテクノロジを習得するのは当然の事として、職場では直接使う事のないテクノロジの勉強を自力で進めるのは、大変な労苦を必要としたのであります。OSや開発環境やドライバは全て米国製で、故に最新の資料は英語版を力業で読み進むしかありません。残業が月間100時間を超える中、自費で資料や教本を買い求め、睡眠時間を削って勉強を続けたものであります。会社から頂いたボーナスの多くが、こうした勉強代に消えていったのでありました。今の若い衆から見ればブラックな企業に映るかも知れませんね。しかしそんな事は無いのです。システム開発系の職場は完全な職人集団で、技術力の高い事すなわち正義でありました。自分がサラリーマンである意識は割と薄く、職人として、より高いスキルを身に付けたい一心だったのであります。
人生は常に勉強だという事は分かっています。しかしそれは、決して均一な要求ではないのです。勉強にはタイミングも濃淡も存在します。農業に種蒔きの時期や収穫の時期がある事に似ているかも知れません。若い頃、かみさんも子供達も自分の遊びも犠牲にしてまでガムシャラに行なった勉強を、オサ〜ンになった今、無理に進める必要は無いでしょう。いや、むしろ、そういう無理な勉強が必要無いような生き方を、これからは選択していくべきかも知れません。
だからこそ、これからは遊びのアンテナをのばす事が、より重要になってくるのだと思います。アンテナの向きによって、遊びの充実度や質は大きな影響を受けるでしょう。確かに物理的な残り時間は35%に過ぎないかも知れません。この残りの35%をいかに濃密に、高い質を以て過ごせるかどうかが重要なのです。ですから、考え方によっては、水筒の水はまだ十分にたっぷりと残っているとも云えるのです。
11年前には、「あぁ、もう残りが半分しかないや」と考えていた私が、「まだ半分も残っているぞ」というレベルを超越して、「水はたっぷりある」と認識出来るようになったのですから、歳をとるというのも、あながち悪いものではないなと考えている次第であります。
【つづく】
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