険なのはある程度は理解しているけど、まさか俺の身にそんな事が起こる筈ないよねとか、大した事にはならないに決まってるよね、などという根拠に乏しい理由で、脅威を軽視してしまう事を「正常化の偏見」と云うのだそうです。こうした思考は人間にとって普遍的なモノなのかも知れません。台風が上陸した際、自分の田圃の状態を見に行って水路に落ちるといった類の事故の話は、毎年のように聞かれますものね。
暴風雨の中の外出は極端としても、例えば飛行機事故を考えてみましょう。一説によると飛行機が墜落する確率は16万フライトに1回との事。これだけ低い確率であれば、まさか自分にそんな事が起こる筈無いよね、と考えてしまったとしても無理からぬように思います。しかしそれでも現実に事故は発生するのです。
2014年の全世界における航空事故による死者は757人。対して同年の日本国内に限った自動車事故の死者は4,113人。自動車の方が圧倒的に危険である事が分かります。ここまでリスクの存在が数字的に証明されているにも関わらず、さあ気を引き締めて車を運転しよう、などと考える事は少なくとも私の場合皆無。一応普通に注意して運転しますけれども、事故を想定して特別に警戒する事はありません。それなりに事故の確率は存在するというのにネ。これを正常化の偏見と呼ばずして、何と呼ぶべきでありましょうか。
リスクを恐れる故に利器を使わない、という選択はナンセンスでありましょう。とは云えリスクは確実に存在する訳ですから、リスクの存在を認識した上で細心の注意を払うというのが、現実的な対応姿勢と云えそうです。
起きてしまった事故の原因を調査し、その原因を排除する仕掛けを開発して事故防止に活かすという姿勢こそが、総合的なリスク低減に繋がる唯一の方法であるとすれば、事故の確率が完全なゼロでは無いという理由で使用自体を排除しようとする行為は、文明そのものの否定に繋がりかねません。ま、あくまでも程度問題ではありますけどね。
正常化の偏見は、我々の思う以上に日常的に発生している概念と云えそうです。注意するに越した事はないとしても、一々ビクついていたのではマトモに外出すら出来ませんものなぁ。ある程度の楽観主義も、文明の維持には必要な事であると云えそうであります。
【つづく】
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