日、映画「Stand by me ドラえもん」を観て参りました。3DCGでリメイクされたこの作品、様々な有名なエピソードを繋いだ形の脚本となっていて、全て既に知っているストーリーだけで構成されているにも関わらず、涙腺を大いに刺激されました。私は昭和40年生まれ。ドラえもんとともに少年時代を過ごした生粋のドラ世代でありますからね。ドラえもんに対する思い入れは、ひとしおなのでありますよ。
この映画の副題でもある「Stand by me」は、直訳すれば「私のそばに立って下さい」=「そばに居て」くらいの意味でしょうが、多くの米国人は「Stand
by me」=「私を支えていて」という意味でこのフレーズを用います。のび太は、未来から来た猫型ロボットのドラえもんに、完全に依存しながら生きています。私も幼少時はその事がとても羨ましく感じられました。「ドラえもんが家に居たらなぁ」と何度夢想したか分からない程であります。
私の場合、学校でいじめにあっていた等の特別な状況に置かれていた訳ではありません。しかし小学生には小学生なりの、中学生には中学生なりの、ストレスやプレッシャーは歴然と存在していましたから、「Stand
by me!」とつぶやける、親密な相手が欲しいと切に思いましたし、特に道具を用いて物理的に様々な解決方法を提供し得るドラえもんの存在は、それが絵空事だと分かっていても、一種の憧れであり続けたのであります。
ドラえもんは時間をコントロールする様々な秘密道具を所有しています。劇中で何気なく使用しているこれらのツール、もの凄いパワーを秘めているんですよね。上手く使えば、何度でも人生をやり直す事すら、可能となるのですから。
私が20代の頃、今の記憶と知識を保持したまま中学時代や高校時代に戻れたらなぁ、などと考えたものであります。実際には不可能だとしても、もし仮にそれが可能になったとしたら、人生のやり直しを望む気持ちは、今考えても、当時はとても強かったように思えます。
最近になって、こうした意識はだいぶ変わって参りました。若返りや人生のやり直しを望む気持ち自身が、薄くなってきたのであります。もう一度中学生に戻ったとして、高校を受験し、部活に邁進し、大学に入って、就職して、一歩一歩スキルを積み上げて、といった今まで走り抜けてきた人生のプロセスを、もう一度最初からやり直す事に魅力を感じなくなったというのが本当のところ。いや誤解を恐れず云えば、こうした人生のやり直しを、面倒くさいとすら感じ始めているのです。
今年のお盆休みに、伊勢原の大山に登って参りました。大山ケーブルに乗って阿夫利神社下社まで行き、そこから徒歩で頂上にある上社を目指します。折しも小糠雨が降る中を、杖を片手にゆっくりと登っていきます。山道には所々に石柱が立ち、七丁目とか十二丁目などと刻印されています。頂上が二十八丁目ですので、この石柱は大体の現在位置を知る指標となっている訳です。
登り始めて1時間くらいで、程なく頂上に到着。晴れていれば相模湾が一望出来るのですが、残念ながらこの日はガスっていて眺望はゼロであります。持っていたおむすびを食べて、そそくさと下る事に致します。下り始めてすぐに、雨足が強くなって参りました。ここ大山は、山全体が阿夫利神社の境内になっています。山号は雨降山と書きますので、元々雨の多い場所なのでしょう。ガレ場ばかりのこの登山道は、登りよりも下りの方が疲れます。特にこの日はガレ場を水が流れ、足下が滑りやすくなっていますから尚更であります。
やっと七丁目まで戻って参りました。頂上が二十八丁目ですから、あと四分の一で下社であります。雨に濡れて冷え切ってしまった体を暖める為に、下の売店でお汁粉でも頂きたいところ。
下から登ってきたハイカーに道を譲ります。頂上の様子を聞かれましたので、「上も同じように結構降ってますよ、お気を付けて」とお答えしたところ、登頂を断念するかどうか一瞬迷った様子でしたが、すぐに意を決したように上を目指して登っていきました。まだ七丁目。登りの行程の四分の一に過ぎません。往復を基準に考えますと、彼はたった八分の一をこなしたに過ぎないのです。対して私は既に全行程の八分の七を走破し、残りは僅か。私と彼の違いはそれだけではありません。私は頂上までの道を既に経験し、状態を知っているのに対し、彼は先に何が待ちかまえているか、全く知らないのです。ほんの2時間程前まで、私も今の彼と同じ状態だったと考えると、ちょっと不思議になるくらいの心境の変化を感じます。
こうした状況で、これから登っていこうとする彼を特に羨ましいと感じないのは、割と普通の感覚でしょう。彼のまだ見ぬ道程を私は知っています。今からもう一度登り返したとしても、きっと大いなる発見がある訳ではないでしょう。雨のハイキングは寒かった。それとて思い出として、既に記憶の中にあるのです。もう一度繰り返して、何を得られると云うのでしょうか。この感覚こそが、人生をもう一度やり直す事に魅力を感じなくなった事、ひいては自分にとってのドラえもんの存在価値の縮小という変化に、似ていると思うのです。
ま、こんなのんきな事を云っていられるのも、これまでの人生をある程度充実して過ごせてきたという自負があり、更に今の生活がそれなりに楽しいものであるからでしょう。一見すると、枯れた男による爺臭い話と取られるかも知れませんが、それは違います。過去をやり直す事よりも、残りの人生をより楽しいものにする事への興味の方が、遙かに強いという意味なのであります。
以前、「かみさんとの関係は、学生時代につきあい始めて、結婚して、子供たちを育て、現在に至る間で、今が一番仲良しと云っても過言ではない」という話をさせて頂きました。過去においてよりも、現在の方がより仲が良いのですから、過去に戻る意味などあまり無いのです。少なくとも私の中では、ドラえもんの存在価値は急速に縮小しつつあり、遊びのアンテナは、はっきりと未来に向けられているのでありました。
【つづく】
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