の「遊びのアンテナ、のばしてるかい?」を11年前に書き始めようと思ったのは、「おいらって、いつまで生きるんだろ」という素朴な疑問を持った事が直接のきっかけでした。当時私は、平均寿命のちょうど半分の年齢に差し掛かっておりました。しかし、だからといって自らの死をを意識し始めた訳ではありません。まだまだ自分は若い心算でしたので、単純に、「人生の半分が終わってしまった」という事実に愕然としたに過ぎなかったのであります。自分自身の人生の終焉までを想像出来ていたかと云えば、答えは否。当時の私にとって、自分の死は、上手く想像する事の出来ない遠い未来の話、という位の認識でありました。
あれから11年もの年月が経過し、私自身の考えや心情も大きく変化致しました。当時の私にとって「死」は恐怖そのもので、例えば大きな病気に罹かったとしたら、生きながらえる為のあらゆる努力を惜しまなかったと思うのです。少しでも生き残る可能性があるならば、全財産を投入する事も厭わなかったかも知れません。幸いにして今まで病気らしい病気もせず、健康に暮らせて参りました。ですから病気については想像を働かせるしか無いのですけれども、もし仮に今私が命の危険が伴うような病気に罹かったとしても、なりふり構わずあらゆる治療を試みる事は、きっとしないだろうと思うのです。
手塚治虫原作のマンガ「ブラックジャック」は私の愛読書の一つであります。ブラックジャックの外科医としてのスキルは超一級。無免許医であるにも関わらず、彼の腕を求めて世界津々浦々から手術依頼が舞い込みます。その度に彼は、法外とも呼べる高額な治療費を請求するのです。ブラックジャック本人の意識についての考察は別の機会に譲るとして、今回は、彼に手術を依頼する患者の側の気持ちについて考えたいと思います。
マンガでは、結構な高齢な患者も、数千万円の治療費を払って、彼の手術を受けようとします。億近い治療費をポンと支払う人すら居るのです。貪欲に生き残ろうとする姿勢を否定する気は毛頭ありませんけれども、もし仮に自分がその患者の立場だったら、数千万円ものお金を治療費として遣うのではなく、後に残される家族が、楽しく快適に暮らす為の資金として遣うだろうなぁ、と思うのです。つまりは、人生をきれいにクロージングする事に、より多くの努力を払うような気がするのです。勿論、若い人の場合、話は別ですよ。我々とは人生の残り時間が違いますからなぁ。
私がそれだけ歳をとったという事なのでしょう。あくまで漠然とに過ぎませんが死を受け入れる気持ちが分かるような気がするようになったのは、別に宗教的な経験をしたからではありません。強いて云えば、これも、あらゆる生物の持つ本能の一つなのでしょう。
私くらいの年齢になれば、自分自身の人生の終焉までを想定の上で遊びのアンテナを伸ばしていくのは、ある意味当たり前の事であります。二人きりで生活を始め、巡り巡ってまた二人きりに戻りつつある今、かみさんと遊ぶ事、かみさんと楽しい時間を過ごす事の優先順位が高まりつつあるのは、いわば必然と云えるかも知れません。私の死はかみさんに多大な影響を与えるでしょうし、かみさんの死は私に多大な影響を与えるでしょう。楽しく幸せに暮らすという軸を考える上で、私とかみさんは完全な運命共同体であります。特にかみさんと私の遊びのアンテナがシンクロしつつある今、互いに元気で健康でいる事が、遊びを楽しむ絶対条件である事に間違いありません。我々は50歳を前にして、自分の為ではなく、相手の為にこそ、自らの健康を維持しようというレベルに達したのでありました。
【つづく】
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