日、石原慎太郎著「天才」(幻冬舎)を読了しました。ご存じの通り、故 田中角栄の生涯を、「俺」という一人称主語で書き連ねた伝記であります。1993年(平成5年)に死去してから既に20年以上が経過した今になって、しかも、当時アンチ田中角栄の急先鋒であった石原慎太郎が、田中角栄の伝記を書くとは。この事に違和感を覚えるのは私だけではありますまい。しかも石原慎太郎は、単なる田中角栄回顧録を発表したのではありません。まさしく田中角栄本人に成り代わって、自叙伝を書いたのであります。
ウォルター・アイザックソン著・井口耕二訳「スティーブ・ジョブズ」(講談社)の様に、生前に著名な伝記作家に依頼して、自分の伝記を書いて貰うという形態であれば理解出来るのですが、今回の「天才」は、無論、田中角栄本人に依頼されたものでは無いでしょうし、彼の妾の家族の事に触れられていたり、その事についての娘の田中眞紀子の不機嫌な態度にも言及されていて、田中角栄の家族から依頼されて書いたものでもなさそうであります。
そもそも田中角栄のプライバシーに触れる部分というか、田中角栄本人にしか分からない筈の心中についても「俺」と云う一人称でズバリと書いていて、こうした推測に過ぎない事を、さも事実であるがごとく断定する表現方法は、ことによったら家族から提訴されてもおかしくないでしょう。この様な危険を冒してまで石原慎太郎がこの本を上梓した裏には、ロッキード事件において田中角栄は悪い事をしていない、つまり有罪を確定させた司法の側が間違いを犯している、そしてそこには、目障りな田中角栄の政治家生命を抹殺しようとする米国政府の強い意図が働いていた筈だという、石原慎太郎自身の信念を、国民に伝える事を目的としているのかも知れません。
大きな陰の力には、結局のところ一国の総理大臣経験者すら逆らう事が出来ないという意味において、福田和代著「オーディンの鴉」(朝日新聞出版)と共通する恐ろしさを感じた次第です。
最高裁によるロッキード事件有罪確定から20年以上も経過した今になって、石原慎太郎がこの本を書いた目的は定かではありません。しかし当時の田中角栄が、国家百年の大計に沿って邁進していた事は、彼の筆から十分に伝わって参りました。こうしてみますと、現在の政治家にはサムライと呼べる人がほとんどおらず、ある意味、現与党にも現野党にも、大いなる失望を感じざるを得ないのでありました。
【つづく】
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